エジプトのスエズ運河はヨーロッパ・アジア・アフリカを結ぶ!

エジプトのスエズ運河はヨーロッパ・アジア・アフリカを結ぶ川の観光ガイド

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エジプトのカイロのトルゴーマンバスターミナルからバスでヘリオポリスを経由して砂漠ロード・国道3号線に入り、ムバ-ラクにある長距離バスターミナルの終点まで約2時間です。終点からミニバス・セルビスをつかって約20分、でスエズ中心部アルバーインへ。アルバーインのヘドラー広場付近の遊歩道がスエズ運河を臨むポート・タウフィークまで続いています。

スエズ運河は1869年11月に開通した人工の運河

1869年11月に開通したスエズ運河は、北端のポート・サイドと南端のスエズ市タウフィーク港の地中海と紅海を結ぶ、全長193Kmに及ぶ人工運河です。スエズ運河は南北どちらかの一方通行で運営され、船のすれ違いはバッラ・バイパス やグレートビター湖などの4ヶ所で可能だそうです。スエズ運河にはパナマ運河のような閘門(ロック)の必要がなく、水の流れが小さいのも特徴です。主に夏にはグレートビター湖から北へ、冬は南へ水流が生じます。

17世紀はルイ14世、18世紀はナポレオンもスエズ運河建設計画

スエズ運河を造る考えは、古代から存在していました。古代エジプトではナイル川から紅海に通じるスエズ湾まで運河が開かれ、ナイル流域から紅海、インド洋への船運があったようです。ですが、王朝の後退などの間に放置された運河は土砂で埋まって使用できなくなり、また別な運河を開削するという繰り返しがあったようです。17世紀には、ドイツの数学・神学者ライプニッツがスエズ運河の開削をフランスのルイ14世に提案したことがあるようです。また、ナポレオンはエジプト遠征を行った当時具体的な運河建設を検討していたようです。

ナポレオンの構想などに刺激を受け、フランス人レセップス中心に1859年に着工。

フランス人レセップスはかつてのナポレオンの構想などに刺激を受け、スエズ運河敷設を1854年にエジプト副王サイードに提案します。レセップスは1858年に国際スエズ運河会社を設立、フランスとエジプトが株を引き受けて1859年に着工しました。掘削工事はエジプト農民の無償労働で行われたため難航を極め、1869年にようやく完成しました。地中海側の入り口には新たに港が建設され、副王サイードの名からポート・サイドと命名され、中間地点にもイスマイリアというあたらしい都市が建設されました。

スエズ運河に架かる唯一の橋は、日本政府からの支援の下に建設された「ムバーラク平和橋」

スエズ運河にかかる橋はこれまでにいくつかあったようですが、いずれも戦火の中で破壊されていました。スエズ運河に架かる新たな橋、ムバーラク平和橋(エジプト日本友好橋) は、エジプトのアル・カンターラでスエズ運河を横断している道路橋です。アル・カンターラの地名はアラビア語で橋という意味だそうで、ムバーラク平和橋は日本政府からの支援の下に建設されました。現在スエズ運河に架かる唯一の橋で、総延長 4.1Kmで4車線を持ち、運河水面から桁下までの高さは70mで世界最大級の橋となりました。

スエズ運河は第3次中東戦争以来封鎖、1975年に封鎖が解かれ世界の海運の要路に

スエズ運河は1956年のスエズ動乱後にエジプトが国有化し、スエズ運河公社の管理下に置かれ1967年の第3次中東戦争以来封鎖されていましたが、1975年に封鎖が解かれました。運河、観光、原油に支えられたエジプト経済に航行船へのテロは大切な運河収入を失い、エジプト経済に致命的な打撃を与えかねません。そのため、スエズ運河へのテロを警戒し兵士が警備しています。長い歴史と共にスエズ運河は世界の海運の要路として健在しています。